いつかはこの日が、と思ってはいましたが、突然でありショックです。
中日球場はこの金山から歩いて15分(自転車では下りで5分?)ほど、子供のころはしょっちゅう野球を見に行っていました。
巨人戦はいつも混んでいて、またお高く(外野子供100円でしたが、巨人戦は200円でした)あまり行けなかったのですが、行くときは気合を入れ友達と開門前からならんでいた記憶があります。
そこでは王、長嶋選手はじめ全員にボコボコ打たれ、テレビ中継の始まる7時20分まで試合が持たないことがしょっちゅうで悔しい記憶ばかり。
ただ中日ファンの私ですら、長島選手の豪快さに感動はしていました。
新人から引退までずっとベストナインだったような記憶もあります。今ではありえないですね。(ほかの球団のサードは何をやっていた!誰だ?中日は島谷?)
思い入れもあります。
引退セレモニー挨拶の「昭和・・・33年・・・栄光の巨人軍に入団し・・・」
この昭和33年に私は生まれました。
昭和40年から48年まで巨人にV9をされてしまいましたが、その4番打者、名サード。
昭和40年に小学校に入学した私は、小学校の6年間と中学校の3年間、すなわち私の義務教育の6年間すべて巨人の優勝、日本一でした。
当時は優勝するのは巨人と決まっていてその中心にいたのが長嶋選手。いつ優勝が決まるかが話題だったような。
しかし、その巨人のV10を阻んだのが、わが中日・・・私の誇りです。
優勝決定のウィニングボールを取ったのはサード島谷。私が高校1年のこと、町中が大騒ぎでした。
昭和49年10月12日に優勝が決まったのを覚えています。その日に長嶋選手の引退会見があり翌日の中日スポーツは私の宝物となりました。黄ばんでしまっていますが。
左上に「長嶋、現役を引退」とあります。
10月14日の中日・巨人戦が長嶋選手の引退試合となりました。ただ、この試合は消化試合となってしまい、長嶋選手の引退試合には中日の1軍選手は上京せず名古屋で優勝パレードをやっていたと思います。花束を渡したのは1軍半の大島選手だったような・・・。当時は「ざま~みろ」と思ったのですが、今思えばこれは恥ずかしいことですね。
引退翌年、監督に就任されましたが、巨人は最下位だったような(中日は2位?)。「これからは中日の時代だ!ざま~みろ」と思ったのですが、これまた恥ずかしいことですね。
そのツケが10.8の結果につながったかも。そのバチが今当たってますね。
長嶋選手、監督、巨人軍終身名誉監督、お疲れ様でした。